インタビューこの人に聞く

「仕事・労働組合・生協をふりかえる」北野 和男さん(京都事業連合 副理事長)

お話し 北野 和男さん(京都事業連合 副理事長)
聞き手 名和又介先生(京都事業連合理事長、京滋・奈良ブロック会長)

<表題・中見出しは“連帯”編集部が編集しました>
北野副理事長は、京大の事務畑のご出身である。京大生協の教職員として、大学生協に貢献いただいた。新潟の教職員セミナーにもご一緒し、平和分科会で報告もされた。幅広い人脈と豊かな公務員体験から大学生協にも新たな視点を提起され活躍されたと思っている。古くは赤胴鈴之助や新しくはウルトラマンのファンではないかと思われる。

■生い立ちと学生時代の思い出

名和 今回、北野さんは5月で事業連合をお辞めになりますが、私と一緒に副理事長を4年間お付き合いいただきました。お互いにさまざまな面で任務分担がうまくできていたのではないかと思います。コンプライアンスの問題や経営内容についても見る目をお持ちだったと思います。ご苦労いただきありがとうございました。まず北野さんの出生のお話からお願いします。

北野 生まれた年は名和先生と同じで戦後2年目で、京都の西大路四条の西院で生まれました。桓武天皇の弟淳和天皇が院政を敷いていた所で、御所から向かって西の院ということで西院とよばれた。その頃の地名が今も残っていて三蔵町とか弓矢の練習場であった矢掛町というところもあり、私が生まれたのは北矢掛町というところでした。西院小学、西院中学を経て高校は桂高校でした。団塊の世代で高校が一杯になってしまったので府立大学の前身である西京大学家政学部跡が桂高校の分校になり、そこに1年間いました。元女子大の家政科だったので男子トイレもなく、生徒数が1000人もいた。1年生で20クラスあり、翌年に乙訓高校ができました。サントリーがある所から朱雀高校の前、中央市場、嵐山と広い校区で、大宮、西院、西京極、向日町、長岡など阪急沿線が桂高校の校区でした。

名和 柔道がお強いと伺っていましたが。

北野 中学校では9人制のバレーボールでアタッカーをやっていました。ところが高校に入学すると、背の高い人が多く、声もかからなかったので、すごすごと帰りかかった時、顔見知りの中学の先輩から柔道を誘われ、新入部員が50人ほどいましたが、農業科の農場の中にあった昔の軍需工場が道場で、しごきに近い練習で友人はやめてしまいました。いつも背中を竹刀で叩く先輩がいて、いつか投げてやろうと、それまではやめられないと思ってました。先輩が通り過ぎる時も大きな声で挨拶しないとあとで殴られたり、桂分校の1年生は本校まで歩いていかなければならず、離れているので遅刻すると、正座させられたりで、5分の1くらいの人数になりましたね。強いクラブでしたが、前近代的でした。

名和 3年間やると随分強くなったでしょうね。

北野 ところが2年の中頃に腰を壊してしまい、マネジャーのような仕事をやった後に退部しました。1年生の終わり頃...


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