お話し 太田雅夫先生(Oと略) 聞き手 名和又介先生(京都事業連合理事長、京滋・奈良ブロック会長、Nと略) |
太田先生は50年代初期に同志社大学法学部で学ばれ、田畑忍先生、和田洋一先生、岡本清一先生などの教えを受け、同志社大学の学友会や自治会の役員のメンバーとして活躍された。 当時は朝鮮戦争下で、警察予備隊(今の自衛隊)の創設や破防法の制定が計画されていて、戦後の右転回が進んでいた時期にあたる。日本が占領下におかれた時期でもあり、学生たちの危機感と警察の武力一辺倒の鎮圧は、今からみても時代の問題かと思われる。 太田先生は同志社大学の人文研で研究を続け、後に桃山学院大学短大の学長、桃山学院大学教育研究所長を勤められた。今は大学生協研究会のメンバーでもある。 「平和に生きる会」の足跡と『50年代の群像-同志社の青春』の出版は、当時の青年の息吹を伝えるとともに、同志社大学の良心を示すものでもあろう。 |
N このたび、先生が出された『50年代の群像―同志社の青春』を興味深く拝見しました。あまり知られていない内容で、かつ貴重な証言に驚きました。50年代の学友とご一緒につくられましたがそのきっかけはなんでしたか? O これまで「平和に生きる会」の会合が続いてきましたが、一昨年の会合で、「みんな年を取ったのでそろそろ終わりにしようじゃないか」ということで、本にまとめることにしたわけです。 そこで田中貞夫さんが中心になって項目を立てて、「平和に生きる会」メンバーで教職に関わっている者についての章と、特にお世話になった5人の恩師を偲ぶ章にまとめようということになり、この二つの章の引き受け手を探しましたが、結局自分の所にまわってきたわけです。 私は1950年(昭和25年)4月に入学し、6月には朝鮮戦争がおこりました。そういうなかで榊原胖夫さんと、そのあと代表をしていただいた池本幸三さんたちが中心になって、「平和に生きる会」を組織しました。その会では田畑先生の子息の耕治さんが、最初に代表になりました。 わたしは教養学部の自治会委員となり、2年のときに法学部自治会委員、3年で法学部自治会委員長をやりました。そのころちょうど破防法闘争があったわけです。先頭に立って東京にオルグにいき、東大教養部、東京学芸大学、お茶の水女子大でもストライキを組織させ、翌日、早稲田大学での都学連の決起集会に参加し、トップバッターとして京都の各大学の破防法粉砕の闘争の報告をしました。 N 先生が生協研究会でお話しされて居たことで、学友会として同志社生協づくりに関わられた経緯がよくわかりました。また平和の会の関わりについて、その当時和田洋一先生が「君たちは何もしなくていいのか」といわれた経緯がこの本に書かれています。和田先生は、北朝鮮問題についても当時から「あの状態ではいけない」と問題意識を持っておられたようです。その意味でも和田先生は、はきはきとものを言われるだけでなく、先見の明をお持ちであったことがわかります。朝鮮戦争の勃発が「平和に生きる会」の活動のきっかけになったわけですか? O 危機感をいだいて最初に動いたのが歴史研究会の榊原さん、池本さんの先輩たちでした。...... |